地震のこと

地震の事、そろそろ、書かなければならないだろうなぁ、と思うのです。

宮城県仙台市で生まれ育った。
東北地方は温泉が豊富だ。
それだけ、活発、なんですな。
つまり、地震も多い。
記憶をたどってみると…

新潟地震(1964/6/16、13:01:41)の時には、「おっかねっ…方言で怖いということ」と言って、母親の足にしがみついていた、らしい。

1968十勝沖地震(1968/05/16、09:48:53)は、わたしの誕生日であったから、朝からなんとなくそわそわしていた、小学校2年生の教室、担任がすぐに廊下に面した扉を開けた、これ以来、地震が来ると、まず、戸をあけるようになった。

1978宮城県沖地震(1978/06/12、17:14:44)の時には、高校3年生、中間試験で早く帰宅、台所に行って、食べ物を物色していた時だった。縦にどんどんと突き上げられ、激しく横に揺れた。テーブルをつかんだまま、何もできなかった。
テーブルの下に隠れなければ、と、思っても、身体を動かせないまま、揺れをやり過ごした。
この時は、ライフラインの復旧にひと月くらいかかったと思う。特に、都市ガスの復旧に時間がかかり、カセットコンロを母親は使っていた。
高校の理科室がめちゃくちゃ、薬品棚の瓶が床に散乱。
液状化現象とブロック塀が倒れて大変だった。

福岡に移動してからは、地震が少ないところだなぁ、と、思っていた。

がっ

福岡県西方沖地震(2005年/03/20、10:53:40)の時には、具合が悪くて寝ていた。1978宮城県沖地震の時のような縦に突かれるような事も無く、揺れがおさまってから、また、寝た。
寝ながらも、よくよく考えて、大学は大変な事になっていそうだ、と、午後から出て行き、このような写真を撮影したり、して…

それなりに大きな地震に遭遇し、とりあえず無事で、現在に至る。
避難所生活は、幸いにも経験した事が無い。



(2011/03/11、14:46)
地震だけでなく、津波による被害がひどい。

わたしの母親は、50年以上、仙台市に住んできた。
思い切って、慣れ親しんだ仙台市を離れる決心をし、福岡市に移動したのが3月6日の日曜日だった。
当初は、3月の土日を使って福岡に運ぶ計画を立てていたのだが、3/6にしたのは偶然である。
今考えると、3/12でも19でも26でも、不可能であった。
何より、あの地震に母親が遭遇していたら、避難なんてできなかっただろうと思う。
何しろ、パーキンソン病だ。
それも、18ヶ月ほどほったらかしにされていて、重症度がすすんでしまっていたし、そもそも、落ちてきたものどもの下敷きになり、怪我をする事は火を見るよりも明らかだ。

毎晩、いびきをかいて寝ている母親を見るたびに、よかったと思う。

妹は、2人の子どもと、自宅近くの小学校の体育館に避難しているらしい。
何しろ、ライフラインがまだまだ復旧しない。
携帯電話も思うに任せない。
数少ない連絡で、無事を確認し、後は、ひたすら、待つしかない。

体育館は、寒いだろうな。